~新morichの部屋 Vol.12 株式会社アイガー 木田裕士氏~
福谷学氏(以下、福谷):「新morichの部屋」スタートです。今回は第12回目ということで、12ヶ月やってきました。なにか
森本千賀子氏(以下、morich):1年続きましたね。
福谷:1周年記念のようなものもご用意してはいるのですが、また来月ですかね。
morich:そうですね、9月ですからね。
福谷:12回目はこの暑い夏の第2弾となります。今回も素敵なゲストをお呼びしています。
morich:そうなんです。超楽しみでした!
福谷:まず、morichさんのご紹介からお願いできますでしょうか?
morich:わかりました。今日、初めての方もいらっしゃるかと思いますが、もともと新卒でリクルートに入社をしまして、25年間リクルートの中で人材紹介、いわゆる転職エージェントを行ってきました。
私の大きな転機は、実は東日本大震災です。それまではリクルートの中でもマネジメント寄りの仕事を行っていたのですが、震災の風景を見て、自分の中で外向けのいろいろな活動をしたいと思いました。
そのためにもう一度コンサルタントの道に戻り、比較的自由を手に入れ、副業を始めたのがそのタイミングです。そこから2足、3足、4足といろいろなわらじを履きながら副業を始めて、ちょうど7年前に独立をしています。
今は転職エージェントということで、組織のピラミッドのCxOと言われるような経営幹部の方々の採用支援をしながら、私のライフワークを超えたソウルワークとして、福谷さんとも一緒にスタートアップの支援をいろいろと取り組ませてもらっています。
福谷:そうですね。
morich:社外役員やアドバイザーなど、ハンズオンで入り込みながら、スタートアップを盛り上げようといったことを行っています。
また、最近のトピックとしては、文科省から「アントレプレナーシップ推進大使」という任命を受け、小中高大学生の方々に起業家マインドを注入するようなミッションを担当しており、全国行脚をしています。
福谷:すばらしいですね。ありがとうございます。素敵なmorichさんではありますが、今日のお洋服は華があっていいですよね。
morich:いいですか? 今日はメルヘンチックですね。ゲストの社長に合わせました。もう、超イケメンです。
福谷:超イケメンでもあり、サムライ起業家でもあります。それでは、ご紹介をお願いします。
morich:本日お越しいただいたのは、株式会社アイガーの代表取締役社長の木田裕士さまです。よろしくお願いします。
福谷:よろしくお願いします。
木田社長の自己紹介
morich:最初に自己紹介を簡単にお願いできますか? この後で深掘りしていきますので、簡単にお願いします。
木田裕士氏(以下、木田):株式会社アイガーという会社を経営している木田と申します。よろしくお願いします。
morich:めちゃくちゃいい声じゃないですか?
福谷:そうですよね。ドキドキしますよね。
木田:私が会社を設立したのが1990年なので37年経ちました。実は、大学生の時から学生起業をしており、大学を出たと同時に株式化しました。アイガーグループという名前で起業したのですが、その時に私が「このような会社を作りたい」と、一番憧れていたのがリクルートです。
morich:本当ですか?
木田:リクルート事件の前ですね。江副さんに憧れてフリーペーパーを学生の時に作っていたのですが、その営業でリクルートに行き「フロム・エー」の協賛をいただいたのが私の最初の営業です。
morich:すごい! そのようなご縁があったのですね。
木田:今の会社はほとんどそうですが、戦後の高度経済成長期に伸びた会社はたくさんあると思います。その高度経済成長が一段落ついて、オイルショックの後に本当の意味で伸びたのは今で言う情報産業というものです。当時の私は憧れながら「次の時代を作る可能性が一番高い会社はリクルートだ」と思っていました。
morich:ありがとうございます。
木田:後ほど、私が感じた他の企業とリクルートの大きな違いについてもお話しできればと思っています。
morich:ぜひお願いします。私が入社した時には、借金が何兆円とある会社でした。
木田:一番大変な時ですよね。
morich:そうなんですよ。一番底の時に入っているんです。まさか、今日のように時価総額ランキング上位に入るような会社になるとは思っていなかったんですよね。そのような話もできればと思います。
福谷:ありがとうございます。morichさん、今日もシャワーを浴びてきましたか?
morich:実は今日はあえて、あまり先入観を持たずにやりたいなと思いまして。本当に初めての体験なのですが、今日は真正面からまっさらに深掘りしていきたいと思っています。
福谷:なるほど。毎回、morichさんはゲストのことをシャワーを浴びるかのように調べまくるのです。
morich:調べまくるのですが、実は木田社長はあまり情報がありませんでした。あえて出されていないのかもしれないのですが、今日はいろいろと聞いていきたいと思います。
福谷:今日は事前ミーティングですごく盛り上がりました。そのようなことも公開していければと思っています。
冒険家に憧れた幼少期
morich:そうですね。まず、ご出身は東京ですか?
木田:出身は東京の練馬区谷原というところで、石神井公園の近くです。
morich:元彼が住んでいました(笑)。
福谷:それも衝撃的ですね(笑)。
morich:大学時代の大昔の話ですが。すみません。
木田:私の兄ではないですよね?
morich:違いますね(笑)。どのような幼少期を過ごされたのですか? ご兄弟はお兄ちゃんと?
木田:やんちゃなお兄ちゃんと、従順でおとなしい弟です。幼少期は冒険家になりたかったんですよね。「植村直己物語」という映画がありましたが、子どもの時から植村直己さんに憧れていました。植村さんはもともと登山家なのですが、いろいろな冒険をされています。
morich:映画がありましたね。観ました。北極圏などですよね。
木田:犬ぞりで北極圏を1万2,000キロメートル旅するのですが、それに小学校の時に憧れて、自分の家の庭に犬ぞりを作っていましたね。原寸大の2メートルくらいの犬ぞりを作って、その上にテントを張ってというようなことをやっている小学生でした。
morich:本当ですか!? では、その頃からやはり冒険家で、今の会社名にも通じるものがありますね。
木田:大学生になって「冒険家になろう」ということで山岳部に入りました。「Seven Summits」と呼ばれる世界7つの大陸の最高峰は、大学の時にもう登ってやろうと思っていたのです。
morich:本当ですか!?
木田:「予定では」です。高校生の時に家のことで大きく方向性が変わりました。父が経営者をしていたので、もともとはけっこうなボンボンの育ちです。
morich:それはもう、見ればわかりますね。オーラが出ていますからね。
福谷:そうですね。
木田:練馬なのでボンボンかどうかはわかりませんが、ただ私の生まれ育った家は150坪あって、庭に池が2つありました。
morich:練馬区でですか!?
木田:そうです。池の1つには橋が架かっていて、よくその橋を渡って遊んでいたんですよね。
morich:池にですか? 鯉がいるわけですね?
木田:そうです。3メートルくらいある大きな1個の岩の滝があったりもしたのですよ。それを裏から登頂したりしていましたね。
morich:わぁ! ちなみに、お父さまは何をされていたのですか?
福谷:確かに気になります。
木田:建築のゼネコンの会社でしたね。けっこう大きくて、従業員数1,000名ぐらいの会社でした。
morich:創業者ですか? 一代で?
木田:創業者です。一代ですね。私が高校2年の春くらいまでです。もう地元の名士ですので。
morich:なるほど。地元では有名なわけですね。
木田:子どもの時に遊びに来ていた女の子と20代になって再会したのですが、私の家にクラスのみんなと遊びに来たことがあったらしいのです。その時に、今はもう亡くなった私の母が、外国のお菓子をお盆に載せて持ってきたそうで。
morich:本当ですか!?
木田:「木田くんの家はもうそのイメージしかない」「木田くんの家に行くと食べたことのない外国のお菓子を、お母さんがきれいな格好でお盆で出してくれる」と言うのです。自分では認識していなかったのです。普通の家だと思っていたのですが、周りから見るとそのような感じの家だったのですね。
morich:そうですか。それが、高校生までですね。ちなみに、中高では何かスポーツをされていましたか?
木田:小学校の時には剣道と少年野球をやっていました。6年生でサッカーに切り替えて、中学でサッカー部、高校でラグビー部でした。ありとあらゆることをやっていたので、同級生からは「広く浅くの木田」と言われていました。
morich:でもアメリカなどでは、そのようにいろいろなスポーツをやることが良しとされていますからね。
木田:1つのことを掘り下げない人間なんです。全部、中途半端なんです。
morich:でも、絶対モテましたよね?
木田:いや、モテないです。
福谷:間違いないです。
morich:間違いないですよね。スポーツもできるし、ボンボン。もう憧れですよね。
福谷:そうですよね。イケメンですし。
木田:いや、昔はもうボンボンって馬鹿にされていたじゃないですか? 切ない小学生時代でした。
morich:そうはいっても、それを超えていますから。お兄ちゃんはやんちゃだったわけですね?
木田:兄貴はもう中学校で一番有名なぐらいのヤンキーだったので、まさかこのようなおとなしい弟が入ってくるとは、先生方も思っていなかったと思います。名前が木田なので、兄貴のあだ名は「木獣 」と呼ばれていたのですよ。
(一同笑)
木田:先生方は、あまりにもイメージが違いすぎたようで「お前が『木獣』の弟なの?」と言われました。兄貴の荒くれに比べて、弟がとてもニコニコしているので「お前、本当に弟なの?」というのがあったみたいですね。
morich:ギャップがあったのですね。どちらかというと「良い子ちゃん」だったわけですか?
木田:兄貴が怖くて有名で、先輩方もその兄貴の評判を知っているので、とても暮らしやすい中学時代でした。怖い先輩もみんな気を遣ってくれる感じだったので。
父の事業の倒産が起業を志すきっかけに
morich:手を出さないということですよね。それで、高校生になりました。そこで、ある日突然ですか?
木田:ある日突然というか、1年ぐらい前から、ちょうどバブルが始まる前の一番冷え切っていた時です。オイルショックのあたりから、あまり調子が良くなかったんだと思います。
オイルショックからバブルが始まるまでけっこう時間がありますが、その間に父の会社はどんどん状況が良くなくなりました。そして最後の1年、高校1年生の夏休み頃に母親に呼ばれて「来月支払わなければいけない手形が2億円あって」と。
morich:桁がすごいことになっていますね。
木田:それがもう毎月のように、来月1億、その次に2億、その次に3億と、手形をずっと切ってしまっているので「いつ潰れるかわからないから、覚悟しておきなさい」と言われました。ただ、なんだかんだで1年乗り切ったという感じです。最初は少し緊張感があったのですが、結局乗り切っていくので「なんとかなるんじゃない?」と思っていました。
morich:大丈夫かと思いますよね。
木田:やはりまだ子どもだったので「もしそのようなことが起きたら、水筒1個持って旅に出てやる」ぐらいの感じでいました。来るなら来いみたいな感じでした。そして、高校2年の夏休みにそれが起こるわけです。私の友達の父親が、父の会社の下請け会の会長だったのですね。下請け会社は50社ほどあったのですが。
morich:50社もですか!
木田:会社自体が本当に大きかったので。50社ぐらいある中の副会長か何かをやっていたのが、私の親友のお父さんでした。倒産するという情報が漏れると大変なことになるんです。取り付け騒ぎでワーッと人が来るので。ある日曜日の朝、その親友が家に泊まりに来ていたのですが、母親に呼ばれて「帰ってもらいなさい」と言われました。
morich:何事だと。
木田:「なんで?」と聞いても理由を言ってくれません。「とにかく帰ってもらえ」と言われたので、友達に「ちょっと家で何かがあるみたいなので、今日は帰って」と言って帰らせました。すると、兄貴を含めて家族全員が呼ばれて、実は来週の月曜日に不渡りが出て倒産するとのことでした。
1発目だと倒産にはならないのですが、その4日後に自動的に2発目の不渡りも出ることになっています。それが明るみになると、支払いが全部止まるということになるのでワーッと家に人が押し寄せてくるかもしれないという状況です。おそらく、負債総額が60億円ぐらいだったと思います。
morich:えぇ!? 本当ですか?
木田:大きいものって、倒れる時も大きいじゃないですか? 私も感覚がわからなかったのですが、そのようなことになると。友達にはこのことを一切伝えるわけにはいきません。
その時もう大学生だった兄貴に「どうする?」と言ったら、「自分で友達の家を渡り歩いてどうにかするから、俺は自由に行く」と。もう車も持っていたので、兄貴は車で移動するとなりました。
morich:それでは、もうみんな一家離散で?
木田:そうです。両親はどこに行くかよくわかりません。「あなたに教えておくと、あなたはまだ高校生だから」と。
morich:身の危険があったということですね。
木田:高校に行くと、取っ捕まって「お父さんはどこ行った?」とやられる可能性があります。そのため高校にも全部連絡をして、最初の1週間ぐらいは高校にも行かないと言いました。
morich:なるほど、隠れるということですね。私も似たような経験をしているので、今少し思い出しました。
木田:「この家族会議が終わったらおばあちゃんの家に移動しろ」と言われたのですが、そのことを1人でも友達に伝えてしまうと、全部に伝わってしまうじゃないですか? そのため一番つらかったのは、友達の誰とも連絡を取れず、突然消えなければいけなかったということです。
その時好きだった女の子に、来週ぐらいに告白しようと思っていたタイミングだったのですね。
morich:わぁ! それは……。
木田:それも連絡が一切できなくなって。リュックサック1個と、自転車は後で送ってもらったのですが、おばあちゃんの家にタクシーで移動して。親から1日に1回だけ電話がかかってきますが、まだ携帯電話がある時代ではありません。
morich:どこにいるかもわからず?
木田:わからずです。知っていると答えざるを得なくなってしまうので、もう知らないほうがいいかということで、おばあちゃんの家で1週間、ただじっと暮らしました。
morich:とりあえず時間までと。
木田:ずっと自転車に乗っていただけなのですが……。調布の仙川におばあちゃんの家がありました。朝起きて自転車に乗ってうろうろして、お昼を食べに戻ってきて、そしてまた自転車でうろうろする。というのを高校2年の時に経験したのが、会社を作ろうと思ったきっかけでしたね。
morich:でも、家にはもう戻れなかったのですよね?
木田:親にも騙されまして、最初は「1週間ぐらいで家に戻るから」と言っていたのですが、結局戻れませんでした。その後に自宅が売りに出るのですが、売りに出た時にはまだ鍵を持っていたので、その1、2年後に自分で忍び込んだりはしていました。
morich:物などもありますもんね。
木田:家の中に全部そのままありました。その経験が大きかったですね。
morich:ある日突然自宅を失うって本当に強烈ですよね。私もそうでした。もう実家がなかったのですよね。
木田:なにかホームシックのすごいのが、そこから10年ぐらいは……。
morich:続きますよね。
木田:もう仮住まいでしかないですし、その後に引っ越しをしても、ダンボールを開ける気にもならないといいますか。売られて更地になってしまったのですが、なんとなくずっと、心に「うぅっ」というのがですね。
morich:その時に「もう1回自分の城を持つぞ」というような?
木田:バブルが始まる前なので一番底値でしたが、その家が土地だけで1億5,000万円で売りに出ていたのですね。150坪で、坪単価100万だったと思います。「1億5,000万円をどうにか稼いで、俺が買い戻してやる」と思ったのが、会社を作ろうと思ったきっかけですね。
morich:そうなんですか。
木田:27、28歳ぐらいの時にはもう会社を作っており、それなりに売上もあったのですが、その頃にはすでに売られてしまっていました。ただ、きっかけはそれでした。買い戻して、まったく同じ家を建て直したとしても、これはおそらく幸せにならないなと思ったのですよね。
morich:そうですよね。もう昔の面影で。
木田:親父のプライド的にも「息子が買い戻してくれたというのは、親父の実業家人生として気分がいいのか?」という思いもありました。兄貴も、弟が買い戻すなんてね。したがって当時楽しかった木田家の……いえ、楽しくもなかったのですが(笑)。
morich:まぁ、団らんですよね(笑)。
木田:暴力兄貴もいたので楽しくもなかったのですが(笑)。良い兄貴なのですがね。
「あの当時を取り戻そう」と思っても取り戻せなくて、取り戻したとしても自分の欲のためだけです。母親は喜ぶかもしれませんが、兄貴や親父にしてみればおそらくうれしいことではないだろうなと思ったので、自分は自分の城を建てるなりしようと、27歳ぐらいの時に思いました。
morich:しかし、大学で専攻されたのは建築なんですよね?
木田:そうなんです。兄貴も私もなのですが、本当は父の会社を継ぐつもりでした。兄貴は今、不動産会社を経営していますね。結局、兄貴は建築・不動産系をやっていまして、私はアイガーという広告の会社なので、もうぜんぜん違います。
ただ子どもの時から、下請けの左官屋さんや大工さんを呼び、全部をプロデュースして1個の建物を建てるというのがゼネコンの一番難しいところなんだという話を親父からずっと聞いてきました。
「27業種を全部操って、時間もずれずにやらないと赤字現場になっちゃうんだ」といったことは、子どもの時からずっと叩き込まれました。
morich:では、帝王学はずっと聞いていたのですね。本来は兄弟で継ぐつもりだったのですか?
木田:今は私の会社のほうが大きいのですが、兄貴はもともと長男なので「強くなれ」と育てられたため親分肌です。私はどちらかというと参謀肌な感じに育ちました。強い兄貴に憧れていたので、兄貴を社長にして、私はキラキラしている兄貴を支えるというのも嫌ではなかったです。
morich:それが、幸せだったかどうかはまた別ですよね。
木田:そうですよね。ですから、ほどよいところで戻ってくるぐらいの冒険をしばらくやろうと思っていました。「山登りをやって、イタリアかどこかに住んで、フィアット社かどこかで働いて、兄貴が戻ってこいと言ったら30歳ぐらいで戻ってこようかな」ぐらいに最初は考えていました。
morich:とりあえず20代は、いろいろと遊んでやると。
木田:倒産するまではですね。倒産してからは、まずはその1億5,000万円で買い戻そうと思っていました。何もわかっていなかったので「5億円ぐらいの会社は、3年ぐらいで作れるんじゃないの?」と考えていました。
憧れのリクルートへ飛び込んだ初めての営業
morich:建築学部に行ってからはどのように考えていたのですか?
木田:やはり建築は免許など、それなりに資本が必要なんですよね。建築士の免許も持っているわけではないので、学生ですぐにスタートはできません。
プレゼンテーションをして仕事を取った後、いろいろな業種を入れて物を作るという流れで考えると、広告業はとても似ているんですね。コピーライターやカメラマンを呼んできたり、印刷所に発注したりというのが非常に似ているので、なんとなく建築業のプレ版のような感じで始めたのが広告業なんですね。
morich:何かきっかけはあったのですか?
木田:当時はやみくもに営業をかけていました。まず何か用意しないとお金が取れないので、フリーペーパーを作ってそこに広告を載せていました。それでリクルートさんに生まれて初めて営業に行ったのですが、リクルートさんはかっこよかったです。
いろいろな会社に営業に行きましたが、当時は男女雇用機会均等法の少し前かスタートぐらいだったので、まだ「お茶くみOL」というのがありました。OLさんは全員制服で、おじさんとOLさんしかいないというような会社が多かったです。
morich:そのような会社が多かったですよね。
木田:大企業であればあるほど、そのような雰囲気でした。営業に行くと、おじさんが出てきて、OLさんがお茶を出してくれるというのが当たり前の大人の社会でした。私の父の会社も同じような感じだったので、そんなものだろうなと思いながら行っていました。
リクルートといえば、「フロム・エー」のコマーシャルをよく見ていました。アルバイト情報誌ですね。それまでも学生援護会が作っていたアルバイト情報誌はありました。
morich:「an」とか、ありましたね。
木田:その後「an」に変わり、今はまた名前が変わってしまったと思います。当時は学生援護会が「日刊アルバイトニュース」という新聞のようなものを出版して、キオスクで売っていたのですが、アルバイト情報誌自体が少なかった時代です。そこにリクルートの「フロム・エー」という、かっこいいものが。
morich:「カーカキンキンカーキンキン」ですね。
木田:それを売り出した時の、あまりのかっこよさには驚きました。もちろん、リクルートを代表するのは「フロム・エー」だけではありません。当時は「とらばーゆ」という女性専用の雑誌も発行していて、その斬新さには目を見張るものがありました。
morich:インパクトが強かったですよね。本当に「広告」でしたよね。
木田:広告業界も、コピーライトにしてもおっしゃるとおりです。「エイビーロード」にしても「abroad」とかけて「エイビーロード」としてみるなど、リクルートが行っていることの未来感がすごくあったので「営業をかけるならリクルートに絶対行きたい」と思っていたのです。
そして実際に、リクルートというかリクルートフロムエーに営業をかけようと、新橋にあったリクルート本社を訪ねました。当時はまだインターネットもなかったので「104」で電話番号を調べて行くような時代でした。
朝、突然飛び込みで行ったのです。まだ大学1年生だったので、父のスーツを借りて企画書を持ち込みました。
morich:本当ですか!? 10代ですね。
木田:ワープロという機械で作った企画書です。雰囲気はノートパソコンに似ています。
morich:私の卒論は日本語ワープロソフトの「一太郎」でした。
木田:ワープロは1行しか表示できず、4倍角文字などを使って企画書を作成しました。その企画書を持って、アポイントも取らずにリクルートの本社に行ったんです。実際に行くと、受付にはきれいな女性がいて、少し圧倒されてしまいました。
morich:そこでですか? まあ、大学生ですからね。
木田:自動ドアが開いて中に入ろうとしたもののビビってしまい、一度新橋駅まで歩いて戻りました。前日の夜、すごく時間をかけて十数ページから二十数ページほどの企画書を作りました。何度もやり直して「これで完璧だ」と思って、意気込んで朝から来たにも関わらず、ビビって新橋まで戻ってしまいました。歩いて5分から6分の距離です。
morich:帰ろうかどうしようかと考えたわけですね。
木田:改札に入ろうかと考えましたが、「いや、昨夜散々考えて、これしかないってところまで作り込んだのだから、帰っても結局また来ることになるだろう」と思い直して、「これはもう行っちゃうしかない」と決めて、再び戻ったんです。
morich:行ったのですか! すごいシーンを覚えていますね。
木田:もう一度本社に戻って、自動ドアがピーっと開いて、受付のきれいなお姉さん方がすーっと立ち上がりました。
morich:江副さんの好みですね。
木田:きれいな方たちでした。私が資料を取り出して話し始めると、「アポイントはおありですか?」と聞かれて、「いや、アポイントは取っていないです」と答えると、とても困った様子でした。
morich:それは受付の方も困りますよね(笑)。
木田:すごく困っているので、その間を埋めるようにそのまま企画の内容を一生懸命説明しました。「我々は学生の組織で、何人も人数がいて、このようなことをやりたいと思っている」などと受付のカウンターに企画書を広げて説明していたんです。受付には次々に他のお客さまも来るので、おそらく迷惑だったと思います。
(一同笑)
木田:「とりあえず、後ろにお座りになって少しお待ちください。確認してみますので」と言われました。受付の方がすごく嫌な顔しているのはわかったのですが、ここまで来たからには言うしかないと思ったのです。
morich:そうですよね。ここまで来たら。
木田:それで話を引っ込めて、後ろに座ってじっと待っていました。受付の2人は「どうする?」と話し合って困っていました。「とりあえずかけてみる?」みたいな感じで内線を回してくれて、イワサキさんという女性に繋がりました。
彼女はかなりやり手の方でしたが、出てくれたのです。しばらくしてから「アイガーさま、7階にお上がりください」と案内してもらえました。
morich:通してもらえたんですか! さすがリクルート!
(一同笑)
木田:本当にさすがです。どこの馬の骨かわからないというか、訳のわからない学生が、訳のわからないことを言っているわけですからね。
他の会社では「誰々課長に言ってくれ」と言われて行くと、OLさんが迎えにきてくれて、応接に通されてと言う感じでした。リクルートの場合は、エレベーターで7階に上がるともうワークスペースで、大勢が仕事していました。
morich:いきなり現場なんですね。なんとなくイメージが湧きます。
まず、相手の役に立つという結果を示す
木田:「イワサキさんを訪ねてください」と言われていましたが、エレベーターを降りた瞬間「どこに行けばいいんだろう?」と思いました。
誰も相手にしてくれないので、とりあえず歩いている人を捕まえて、「イワサキさんにアポイントをいただいて」と伝えると、向こうからすごく小柄でおきれいな女性が近づいてきました。おそらく26、27歳くらいだったと思います。
morich:若いですね。
木田:私は18歳です。イワサキさんが「あ、キミ?」というような感じで、ツカツカと歩いてきて「キミさ、アポイント取ってきてないから、私のデスクの横ね。来て」と言われました。
morich:すごい! デスクの横ですか?
福谷:かっこいいですね。
木田:本当にオフィスでイワサキさんのデスクの横に座らされました。
morich:昔は今ほど情報管理もなかったですからね。
(一同笑)
木田:そうなんです。何にもありません。入口も特にセキュリティがあるわけでもありません。そのまま中に入って、イワサキさんの横に椅子を出されて、本当にオフィスのデスクの横に座らされました。
morich:いや、もう想像つくのですよ。よく怒られるときに、丸椅子を置かれたりするあの感じですね。
木田:そうなんです。横に座ると、その隣の女性が何かデザイン画を描いており、目の前のパーテーションに、そのデザイン画をピンで留めていました。私が横に座っているのも気にせずに、CDウォークマンを聴きながらパンか何かを食べつつ、デザイン画を描いているんですよ。「なんかすごいなぁ……この会社のかっこよさ!」と思いました。
morich:そうですよね。みんなが何かを食べながら仕事している感じ、わかります(笑)。
木田:パンをかじりながら、売上が何件出たとか、数字を見ながら働いていて活気がありました。
イワサキさんから「じゃあ、企画の話をして。何?」と言われたので、受付で話した内容をもう一度説明しました。「はい、はい、はい、はい」とテンポよく聞いてくれて、最後に「なんでうちに来たの?」と聞かれたんです。
私は、本当にリクルートが好きで憧れの会社だったため「リクルートさんに個人的に興味があったものですから」と言いました。すると途中で「ハァン!」と笑われました。
(一同笑)
木田:私が杓子定規なことを言ったように聞こえたのでしょう。「個人的に興味があったものですから」と言ったら、「ハハハ、興味って何?」と言われたのです。
福谷:癖が強いですね(笑)。面白い方ですね。
木田:まるで全部をかぶせるように、「興味って何?」と、笑いながら言う感じでした。
そこで私は「戦後の日本は好景気が続いて、大企業がたくさん生まれましたが、オイルショック以降に本当に新しいものを生み出す情報産業で、急成長しているのはリクルートさんしか存じ上げません。私は将来、大きな会社を作りたいので、リクルートさんの内部を知りたくて来ました」と答えました。
morich:えぇ!? それをそのまま言ったのですか?
福谷:すばらしいですね!
木田:「へえー」と言われました。「なんかすごいじゃん、あんた」という感じでした。
morich:大学生でそんなことが言える人は、なかなかいないですよ。
木田:「へえ、面白い」という感じになって、「じゃあ、フリーペーパーの話はわかったけど、あなた方が何百人という学生を組織しているのなら、我々がやるイベントにサクラで学生を呼ぶとか、そのような協力は得られる?」「所属している学生の大学に、うちのポスターを貼りまくってもらうとか、そのようなゲリラ的な動きはできる?」などと言われました。
morich:そこから仕事が広がったのですね。
木田:そうですね。「具体的にはどのようなことですか?」と聞くと、今リクルートはリクルートポルシェというレーシングチームを持っていて、サーキットレディーを募集していると言うのです。
morich:それは非常にマニアックな話ですね。内部の人しか知らないネタですよ(笑)。
木田:そこに昔でいうサーキットレディーというのは、傘を持っている人が入り始めたぐらいの時でした。
福谷:なるほど。
木田:「『フロム・エー』誌上で大々的に募集してオーディションをやろうと思っていて、会場は三田にある笹川記念館を用意しているけれど、社員は忙しくて見に行けない。観客として学生を呼んでもらえる?」と言われたのです。
morich:あぁ。にぎやかしですね。
木田:「何人ぐらいですか?」と聞いたら「30、40人くらい」と言われたので「できます」とすぐに答えました。すると「わかりました。じゃあ、そのようなことも期待できるのね」と返されました。
「いつ頃の予定ですか?」と聞くと「1ヶ月か2ヶ月先なんだけど」と。「すぐに準備できます」と返事をしたら「わかりました。じゃあ、それも頭に入れておくね。とりあえず今日の企画は話がわかったので、検討してお返事します」と言われました。
ただ、「検討してお返事します」は、最悪のパターンじゃないですか?
(一同笑)
morich:当時の日本の企業はそのような感じですよね。
木田:連絡が来ないなと思って電話をかけたら、「いろいろと検討した結果、ダメです」と言われると思いました。「これで終わりか」と思ったのですが、その日はもうアポイントもなくて。でも、それだけ話して名刺交換もできたから……。
morich:「ダメです」というパターンですよね。それだけでも本望だと。
木田:はい、それでその日は帰りました。まだメールがなく、FAXしかない時代でした。そこで、その日の夜、FAXに大きく「日付を教えてください。30人もう集め終わりました」と書いて送りました。
morich:送ったのですか?
木田:夜のうちに送りました。そして、翌朝一番にイワサキさんに電話をかけて「FAX見ていただけましたか?」と聞いたら、「いや、まだ見てない」と言われたので、「後で見ていただきたいのですが、一応、人数は全部集め終わりましたので、場所と詳細を教えてください」と伝えました。すると、「えー!? 本当に集まっちゃったの?」と言われました。
(一同笑)
morich:すごいです! 営業マンの手本のようなやり方ですね。本当にすごいです。
木田:でも、本当は集めていなかったんですよ。
福谷:なるほど(笑)。
morich:わかってますよ(笑)。
木田:ただ、「フロム・エー」を使っていたし、私は建築系で、男子校のような感じだったんです。それで、「サーキットレディーのオーディション、見に行くか?」と言えば、来るに決まってるんですよ。
(一同笑)
morich:言えば、あっという間に集まりますよね。
木田:100人でも200人でも来ると思っていました。だから、あたかもすでに集めたかのような雰囲気を醸し出そうと思ったのです。
イワサキさんは「何もお金は出せないし、グッズくらいしかあげられないけど、それでもいいの?」と言うので「大丈夫です」と答えました。「じゃあ詳細を送るね」と送っていただいて、当日は実際に40人くらいを連れて行きました。
それと、当社は広告会社なので、いろいろな企業のイベントにコンパニオンを派遣することも考えていました。実はそのサーキットオーディションに落ちた子たちが、笹川記念館の近くのファミレスにたくさんいたので、そこで名刺を配って全員に登録してもらいました。そのような副産物もありました。
morich:なるほど(笑)。
木田:そのようなことをやりながら、イワサキさんに無償で協力したことで、「例の件もよろしくお願いします」とお願いしたら「借りを作っちゃったもんね」と言われました。
morich:リクルートって、そのような時は絶対に返すのですよ。
福谷:そうなんですね。
木田:当時は、何部発行されているのかもよくわからないフリーペーパーに、広告費が30万円、40万円もかかる時代で、裏表紙に50万円かかることもありました。その裏表紙に一番大きな広告を掲載していただいて、その後も定期発行するたびに、すべて広告を出し続けていただきました。
morich:わかります! イワサキさんって、本当に10倍返しのような対応ですね。
福谷:イワサキさんに会ってみたいですね。
木田:イワサキさんは本当にすばらしい方なんです。見た目はとても可愛らしいのですが、中身はすごいですから。
morich:いや、本当に男前な方ですね。
福谷:かっこいいですよね。
morich:当時は、本当にそのような男前の人たちばかりでしたよね。それがもう原体験ですね。
木田:それが一番最初の営業ですね。やはり積極的に行動しなければダメで、まず相手に役立つという結果を先に示さないといけないと学びました。
morich:ザ・営業ですね! 伝説的ですね。
木田:18歳、大学1年生の時の経験でした。
福谷:映画のシーンのような感じですよね。「横に座りな」というシーンですね。
内定を辞退するという不義理をしても起業がしたかった
morich:その後も4年間ずっとそのような活動を続けていたんですよね。
木田:4年間は、そうした学生ベンチャー活動を続けながら学生生活を送りました。
卒業と同時に株式化しましたが、一応親には相談したんです。すると「ダメだ。1回は就職しろ」「就職できないからそんなこと言ってるんだろう」と言われたのです。バブルの頃でしたから、どこにでも入れる状況ではありましたが。
親父は自分で会社を立ち上げる前、若い時に今では中堅大手の安藤ハザマ建設で働いており、トップセールスマンだったという話も聞いていました。実際には3、4年くらいしか勤めていなかったようですが、安藤ハザマに内定をもらえば、親父も文句を言わないだろうと思い、とりあえず内定をもらいました。
その後不義理をしてしまったわけですが、内定をもらったので、就職できないから起業するのではないと示しました。
morich:内定はもらっていたのですね。
木田:1990年に会社を設立したのですが、その年に商法が変わり、株式会社の最低資本金が27万円から1,000万円に突然引き上げられました。
それより前に設立していれば、そこから5年間の猶予期間の間に増資すればよかったのですが、初めから1,000万円と言われてしまうと、やはりその現金を用意するのは難しいですし、有限会社で始めたくもありませんでした。
当時、有限会社であれば200万円や300万円で始められましたが、それでも厳しかったです。株式会社でスタートしたいと考えると、2、3年どこかで修行して戻ってくると、もうそれができなくなってしまうと考えて、私は「自分でやる」と決めました。
その頃、やんちゃだった兄貴はすでに就職しており、週末だけ家に帰ってきていました。翌日が入社式の3月31日、父も母も困った顔をしていました。実は安藤ハザマ建設から何度も電話がかかってきていたのですが、私は出なかったんです。
入社式の当日に直接行ってお断りをしようと考えていました。別に他の会社に浮気しているわけではなかったので、その日は行こうと思っていたんです。
morich:入社するつもりはなかったのですね。
木田:例えば「洋服のサイズを教えてほしい」とか、いろいろ問い合わせがあったのも、全部無視していたので、父と母は本当に困っていましたね。
久しぶりに帰ってきた兄貴も、家族会議のような場にはあまり興味を示さなかったのですが、夕食を食べる時に一緒にいたので、私はその持論を展開したのです。「1,000万円は用意できないから、もう自分でやるんだ」と言ったら、親父も自分が起業した経験があるので、理解はしてくれました。
morich:気持ちをわかってくれたんですね。
木田:親父は「うーん、でもな」と考え込んで、「1回も外の飯を食べないって、世の中をなめているのではないか?」と言っていました。母もどうしていいのか分からない様子で、親父がどう判断するのかと心配していました。
兄貴は黙って興味なさそうに聞いていたのですが「お前な、人の下で働いたことがないっていう、その経験をしないままでいいのか?」と言いました。
「お前は才能を持っていて、いずれ何千人の会社を作るかもしれない。けれど、人の下で使われるっていう苦しみを味わったことのある人間と、味わったことのない人間は違う。お前は1,000人規模の会社を作るかもしれないけど、今ここでしばらく働けば、それが1万人にもなるかもしれない。それでもいいなら勝手にしろ」と言って、いなくなってしまったのです。
morich:なかなかいいアドバイスですね。
木田:いまだに言われますけどね。結局その経験はしなかったので、人の下で働くことの虚しさみたいなものは、わかる気になっても、経験しなければわからないものです。
その日の話し合いが終わり、次の日の朝一に入社式へ行きました。同じ大学からも何人か合格していたので、私は入社式の1時間前に人事部長のもとに向かいました。人事部長はようやく来たなという感じで「裏に来い」と言われたので、ついて行って「実は今日、もう退職したいのです」と言いました。
最初は水でもかけられるのではないかと思いましたが、人事部長から「なんでだ?」と聞かれたので、「親父がやり残した仕事があって、私はそれを再建したいので、自分の会社を作りたい」と答えました。「それは立派だけれど、じゃあなぜ内定を取ったんだ?」「お前を合格させたせいで、別の1人が落ちているんだ」と言われました。
morich:確かに、そのとおりですね。
木田:「大勢の人に迷惑をかけて、そんな状態でお前は事業を成功できると思っているのか?」と。でも最後には「その決意をしているのであれば、必ず成功させろよ」と言ってくれました。
morich:いやぁ……。男意気!
木田:建築会社の部長さんって、本当に立派な方ですね。
morich:でも、そのようなシーンをよく覚えていますね。すごくいい出会い!
木田:いろいろなことが起きたり、社員が不満を言って会社を辞めてしまうようなことが起きたりした時には、その度に思い出して反省しています。
「やはり自分は社員の気持ちを理解できない、根本的な才能を持っていないのかもしれない」と感じることがあります。「あの時もし自分が就職していたら、この社員は辞めなかったかもしれない」と考えることもあります。美化して思い出している部分もあるかもしれませんが。
原体験から学んだ収益性の高い案件を選ぶということ
morich:会社を始めた当時、社員は何人ぐらいいたのですか?
木田:始めた時は1人です。学生の時にはアイガーグループとして10人ほどいましたが、みんな就職活動をして、それぞれの道に進んでいったので、いったん私1人だけが残ったんです。
morich:みんな就職活動をして、就職してしまったのですね。
木田:そもそも人を抱えるのは難しいと考えていたので、1人で始めました。最初の社員が入ったのは、その2年後です。当時、大学院に進学していた仲間たちが卒業して、数名戻ってきたという感じです。
morich:そうでしたか。その方はまだいらっしゃるんですか?
木田:10年くらいは一緒にいましたが、今はもういなくなってしまいました。1人だけ、当時アルバイトをしていた女性が、別の仕事を経て戻ってきて、現在は当社のCFOを務めています。
morich:そうなんですか。ということは、ずっと広告代理店としての活動を続けてきたんですね。
木田:今と同じアイガーという広告代理店で活動しています。
morich:ある種、クリエイティビティが求められる領域だと思いますが、もともとそのようなセンスはお持ちだったんですか?
木田:もともと建築のデザインコースを卒業しており、プレゼンの方法や、デザインをコンピューターでどう作るかなど、建築を通じて学んできました。プレゼンについても、細部よりも全体像をどう伝えるか、お客さんに価値をどう伝えるか、といったことを大学で学びましたし、パネルの作り方などもいろいろと教わってきました。
morich:それにしても、錚々たるクライアントばかりですね。
木田:そうですね。最初から大手としか取引しないと言っています。大変ではあるのですが、支払いが止まることはないのです。不渡りが来ることもありません。
morich:それは確かにそうですね。
木田:学生時代に取引のあった上場企業の係長に、会社を株式化した時に挨拶に行ったのですが、その時「これで木田くんも経営者になったね。これから金策で走り回るんだろうね」と言われました。「金策」って響きがかっこいいなと思ったんです。
morich:ちょっとやってみたいような感じですね。
木田:経営者らしい響きだなと思って、その日の帰り道に「そうか俺もこれからは金策をやるのか」と考えましたね。
morich:実際には、そのようなことはされなかったんですか?
木田:はい、一度もありませんでした。
morich:いや、さすがですね。
木田:父の体験を模擬体験として学んだことが大きかったです。会社が倒産するというのはどれほど怖いものかを知っていましたから、先に集金をしておかないとダメだという感覚が身についていました。支払いの予定だけが先行することを避けるために、すべて現金主義でやってきました。今でもその方針です。
morich:でも、広告業界って、ある意味ザルな感じがしますよね。それでも、しっかり収益を上げていたのですね。
木田:今でもそうなのですが、当社は収益性の高い案件を選んで仕事をしているため、収益性が非常に高いのです。逆に、もっとリスクを取るようなやり方をすれば、成長のスピードはもっと速いのかもしれません。
morich:かなり堅実にやってきたということですね。
木田:大きな会社が一気に倒れることもあるというのは、父の経験から学んだ原体験のようなものですからね。現金が先に回らないとダメだと、今でもそう考えています。
1つだけ大きな取引先があるというリスク
morich:今までのいろいろな顧客との取引で、特に印象的なエピソードなどはありますか?
木田:当時、まだ売上が3億円から4億円程度の時期に、売上の半分以上を占める大きな専門学校がありました。その学校の広告やパンフレットなどをすべて担当しましたが、その学校にはライバルの大きな専門学校があったんです。
そのライバルの学校にも営業をかけて、話がかなりうまく進んでいて、もう少しで契約を取れるというところまで行ったんです。しかし、同じ業界ですから……。
morich:ある意味競合関係にあたりますよね。
木田:もちろん、向こうの情報をこちらに流すようなことは一切していません。ゼロから交渉をして取りに行っていたのですが、アイガーがそちらにも関わっているということが伝わったらしいのですね。
morich:あぁ……、激怒されました?
木田:部長から電話がかかってきて「ライバルのとこに営業に行っているらしいな。もう取引全部止めるからな」と言われたのです。
福谷:うわぁ……。
木田:「もうそちらと付き合えばいいじゃないか」と言われまして。
morich:うわぁ! 売上の半分ぐらいですか?
木田:売上の半分です。そして、電話を叩き切られたのです。
morich:えっ!?
木田:「ご説明に……」などと言っても途中でバーンと切られました。今と違って、そのようなパワハラはもう当たり前な時代ですので、電話を切られて、次の日どうしようかと思いました。とりあえず朝の9時か10時ぐらいには部長が来るだろうと思ったので、その専門学校の校門の前で待っていたのです。
朝7時ぐらいから直立不動で待っていたら、知り合いの先生がいっぱいいて「あれ? 木田さんどうしたの?」というような感じで声をかけてきました。「いや、サカイ部長をお待ちしているので」と言ったら「いやいやいや、部長を待っているのでしたら、中に入ればいいではないですか」と言われてしまって。
morich:いやいや、困りますって(笑)。
木田:「いやいや、ここで大丈夫です」「入っていいですよ」「お気遣いけっこうです。私ここにいます」というようなやり取りがありました。パフォーマンスで立っていようと思っていましたので、立っているところを笑いながらいろいろな先生がとおり過ぎていく中、サカイ部長が来られました。いい方なのですよ。
morich:怒っていましたか?
木田:いや、来た瞬間は「なんでいるんだ、お前」というような感じでしたが、「ちょっとお話が」と言ったら「とりあえず中に入れ」と言われました。「どうするんだ?」と聞かれましたが、取引しているわけでもありません。
「先方との取引をすべてやめるのか?」と言われたので、「もうやめます。一切連絡を取りません」と答えました。すると「お前の情報はすぐに伝わってくるからな。お前がその学校に営業をかけるのなら、うちはなくなると思え」と言われました。
「なんだかんだ、うちの情報とか競い合っているから。先生がどのぐらいいるとか、雰囲気が伝わるだけでもまずい。もう戦争状態なんだ我々は」「お前がそちらに浮気しているというのであれば、防衛的に切ることになる。本当に縁を切るんだな?」と言われて「縁を切ります」と答えたわけです。
福谷:あぁ……。
morich:その場でですね。
木田:その場で言って、取引はそのままになったのですが、帰りながら「これをされると、会社ではないな」と思いまして。もう来年からこれ……。
morich:専属のようになってしまいますものね。
木田:1つだけ大きな取引先があるというのは、こんなにも危険なことになるのかと思いました。約束はしたので、そちらには営業しないのですが……。
morich:リスクだなと。
木田:来年はこの専門学校の売上は下げようと思いました。もうぜんぜん営業に行かないぐらいでいいと。その穴はどこかで埋めないと、毎回このようなことをされると、もう奴隷になってしまうと思ったので。営業をかけることは、自由じゃないですか。
morich:そうですね。
木田:恨み事を言わせていただくと、日本で一番大きい専門学校でしたが、その後、倒産なさいました。私が縁を切ってしまったほうは、いまだにテレビコマーシャルをやっています。
morich:本当ですか!?
福谷:へぇー!
木田:乗りかえておけばよかったなという感じですね。
ただ、倒産寸前になった時に、サカイ部長が「木田ちゃん、ごめんね」と。「木田ちゃん、向こうに営業をかけといてもよかったね。俺もけっこう仕事をあげたけど、本当の意味で事業家に仕事を上げるというレベルの金額ではなかったね」とおっしゃいました。
当時その専門学校は、売上と言うのもおかしいのですが、収入がだいたい100億円から200億円ぐらいのところでした。
「キミにあげられたのは、せいぜい1億円くらいだもんね。30億円とかあげられていたのならよかったけど、そこまでぜんぜんいかなかったのに。このような状況になってごめん。合わせる顔がありませんわ」と言ってくれた部長さんでした。
部長さんの立場的に、私にそのようなことをしたことは、逆に言えば立派な人だなと思います。自分の部下が厳しくやらなければいけない時に、いろいろな業者などにそのようなことをしてやれているかということも引っくるめて考えると……。
morich:勉強ですね。
木田:立場で行っていた人なので、サカイ部長には逆にご恩さえ感じています。恨みなど何もないのですが、あえて言うことがあるとしたら「潰れんなよ……」と言いたいですね。「ついて行ったのに」と。
(一同笑)
木田:それはありましたね。すみません。言いたいことを言ってしまいました。
世界一のメディアコンツェルンを作る
morich:今はTOKYO PRO Marketに上場されて、この後どう展開されていくのですか?
木田:基本的に、世界で1番大きなメディアコンツェルンを作るつもりです。
福谷:うわぁ!
morich:世界ですか!
木田:日本に世界的メーカーはたくさんあると思いますが、日本ではメディアだけが世界的になっていないのですよね。テレビ局にしても映画にしても、日本語に守られて、すごい経済圏が日本の中にあったからです。
黒澤明監督の頃のほうが、まだ世界的でした。今はスタジオジブリにしても結局、向こうのコンツェルンの中の商品として売られている感じになります。
本当の意味でのメディアコンツェルンが日本にあってもおかしくないと思います。カード業界やサービス業でも、世界的なものが日本にはあるはずなのですが、メディアだけがないという状態なので、世界的なコンツェルンにしていこうと思っています。
今のところ、TOKYO PRO Marketが適正だと思います。本則市場というのももちろんありますが、日本市場だけにとどまらず、いろいろと戦略はやっていこうと。
morich:どのようなメディアを構想されているのですか?
木田:基本的にまだ模索中です。具体的にはいろいろ取り組んでいますが、例えばテレビ局など日本の強かったメディアや、電通をはじめとするメディアの長といわれている人たちが、インターネットやSNSなど、新しく出てきたものに本当の意味で乗り換えられない原因は、この20年から30年近くの間に、日本に蔓延していた中抜き状況のせいだと思っています。
ビジネスの世界の言葉で言うとアウトソーシングですね。なんでもかんでもアウトソースするということで、自分たちで汗をかかず、下請けを競争させて安く使ってきたことで、テレビ局ももう今はテレビ番組を作っていないですし、全部制作会社が作っています。
福谷:確かにそうですね。
morich:広告代理店もそうですよね。制作していないですものね。
木田:広告代理店も制作していないですよね。電通もテレビの枠売りをしているだけになってしまっているし、物を作るはずだった電通テックも結局外に落としている感じになっています。
当社は新しくいろいろなことにトライしています。例えばYouTubeの番組作ったり、当社が運営している「学費ナビ」というサービスのプログラムを作ったりしています。それを今、もし大手テレビ局がやろうとすると、外注を雇わなければいけません。
お金になるか花が開くかわからないものに投資して、どんどんお金を使うというわけにいかないため、当社がこだわっているのは、全部社内で作るということです。
morich:内製ですね。
木田:当社のクリエイターはすべて社内におり、撮影の部隊もプログラミングも、デザイナーもいますし、営業も全部自社なのです。
販売会社に売ってもらうとなると、瞬間的に売れるかもしれませんが、結局その販社がいくらで売っているかわかりません。自分たちはクオリティを下げずに値段を引いていても、それをいくらで売られているかもわからないとなると、本音の部分で商売ができなくなってしまいます。
当社は今、その準備段階としていろいろと動いており、「学費ナビ」というのも1つの勉強だと思っています。それ以外にYouTubeの番組も作るなど、ありとあらゆるものに取り組み始めています。
日本は誇れる国だと伝えたい
morich:木田社長はラジオもされていて、タイトルは「ジパングの黄金」です。かっこよすぎますね。やはりこだわりとしては、もう日本というよりは世界ですか?
木田:こだわりといいますか、当社はニューヨークにも子会社があります。悲しいかな私がその会社を作った頃は、バブルの絶頂の時で日本の経済はアメリカを抜いていました。
morich:時価総額ランキングは、日の丸がズラーッと出ていましたね。
木田:もう50位の中の30社ぐらいが日本でした。GDPも当時アメリカが世界GDPの24パーセントぐらいで、日本が17パーセントぐらいまで行っていたのです。3位のドイツがせいぜい3パーセントと、EUが全部連合して日本に対抗できるかどうかというような状況でした。
今はちょうど中国が17パーセントぐらい行っていると思いますが、日本はもう4パーセントほどになってしまいました。当時はそのぐらいの時だったので、日本が天下を取れるかもしれないと夢を見ながら会社を作ったところもあります。
江戸幕府の時の薩摩藩などが日本のポジションと考えると、アメリカが弱くなってきたとか、いろいろな考えかたがありますが、軍事力を見ていると、軍が強い限りその帝国時代は変わらないと思います。私の後半の人生では、やはりアメリカのニューヨークなどを首都だと考えて、戦略を練らなければいけないとすごく考えています。
morich:日本愛を持ってはいらっしゃいますよね。
木田:「ジパングの黄金」が何かというと、私が社会に出た1990年の時の日本の勢いと比べると、この30年で本当に日本はダメだというような感じになっています。しかし、私はアメリカの次の天下を取るのは、日本かドイツかロシアだと思っています。
この3つが次の覇権を取るということを考えるのは、結局、最終的に江戸幕府を倒したのは毛利氏だということからです。関ケ原の戦いで江戸幕府になれなかった第2勢力が、その次の天下を取るということですね。これは室町幕府から変わった時も全部そうです。
morich:続いていることですね。
木田:中国はまだ早いと思います。アメリカの衰退の後の可能性がある国というのは、ドイツか日本か、ソビエト時代もひっくるめたロシアだと思います。ただタイミング的に、まだ100年は続くと思いますので、日本が今取らなければいけないポジションというのは、今すぐ天下を取ることではないと思います。
ただ、そのぐらいの位置にいるよということは、もう1回、日本の若者はわかっていたほうがいいと思います。最近は中国の勢いがないので、あまり脅威も感じなくなりつつあるかもしれません。
「ジパングの黄金」というのは、日本はまだ捨てたものではないよということです。文化水準の高さにしても、技術水準の高さにしても、円が安いとかいうのも関係なくて、これだけ安全で、これだけ高度に科学が発達しているという国は世界を見てもありません。これほどまでに態度もよくて、教育水準も高くて、清潔で、ニューヨークに行っても勝ったと思えます。
morich:ないですよね。本当にそう思います。
木田:価格水準がこれほどまでに高く、ハンバーガーが安く買えるなんていうのは逆に自慢できるぐらいです。このようなコストパフォーマンスのいい文明国は、日本しかないという自信をもう1回持ってもらいたいという意味で行っています。
あまり愛国という意味で放送しているわけではないのですが「日本は誇れる国だよ」「文化水準の高い国だよ」ということを言いたくて、日本の大企業の社長さんにゲストで来ていただいています。
morich:それも、ものすごく深掘りされるのですよ。もう本当にシナリオがすばらしいなと思いました。
木田:深掘りはほとんど私がしています。
3歳の娘と本気のケンカ
morich:最後に、みなさま木田社長のプライベートに関心があるかと思います。このいでたちですからね。最近はかわいらしいお子さまが、インスタにガンガン出ていますが(笑)。
木田:恥ずかしいやらで。
morich:翻弄されている感じですかね。今は。
木田:子どもって、やんちゃですねぇ。
morich:DNAですかね(笑)。
木田:それはそうかもしれないですね(笑)。みなさまに質問なのですが、子どもが何か訳のわからないことを言うじゃないですか。
morich:たくさん言います。
木田:訳のわからないことを言いますよね。本当に偉そうに。
morich:そうですね。めちゃくちゃ偉そうです。
木田:大人って、それを「うんうん」と聞いてあげるじゃないですか。「そうなの」って。単純に「つまんねえよ」と思ってしまいます。
(一同笑)
木田:あまりに言っているレベルが低いぞというのは、いつになったら言っていいのですか? いつ本音で言えばいいのでしょう。
morich:対話ですか(笑)。本音で、ですね。
木田:例えば何かスポーツをしていたとして、バレーをやっているとして「ひとつもうまくないよ」というのは、いつ言い出したらいいのでしょうか?
(一同笑)
morich:気付かせなければいけませんよね(笑)。
福谷:なるほど。
木田:気付かないまま大人になって、本当は下手なのにうまいと周りに言われ続けたために、うまいと思って大人になったらやばいじゃないですか。
morich:ちやほやされてね。勘違いして。やばいです、やばいです。
木田:そこを「いつ切り替えたらいいのかな」と思います。
morich:親子はなかなか難しいですね。他人から教えてもらったほうがいいんですよ。
福谷:指導者にということですよね。
木田:自分の子には、永遠にすごいよと言いますよね。
morich:親はどんなに下手くそでも、どんなにへなちょこでも、やはりかわいいですし、立派だなと思っちゃうんですよ。自慢の息子だと思っちゃうんですよ……。
木田:思っちゃいますか……。もう最近は「あんたがノーで、私とママだけがイエス」なのです。
morich:本当ですか? 天下取ってます?
木田:「ママと私がイエスで、あんたはノー」と言われたので、「お前がノーだ!」と言ったら「ノーではない!」と。
(一同笑)
morich:3歳のお嬢さんに(笑)。もう本気で?
木田:ガチのけんかをしています。「していていいのかな?」と思うこともありますが……。みなさまに質問ですが「お前の言っていることは道義的におかしいぞ」って、いつ言えるのでしょうか?
morich:女の子には甘いのではないですか?
福谷:私にも6歳の娘がいまして、ダメだとは思いますが、怒ったことないです。
木田:マジですか?
福谷:1回も怒ったことないです。
morich:私も父親に怒られたことがないですね。
木田:本当ですか!?
morich:ないです、ないです! 今でも大好きです。母親は厳しかったですけどね。
木田:どちらかが厳しいのはいいですよね。
福谷:妻は厳しいですね。いつも怒っています。何をするにも怒っています。そこから私も怒られています。
(一同笑)
木田:妻が怒った時は、私も怒るのをやめようと思っています。妻となんとなく連絡を取り合いながら、逃げ道は作ってあげようと思っていますね。
morich:週末はどのように過ごされていますか?
木田:週末は「週末住宅」にいますね。
morich:週末住宅。練馬ではなく?
木田:練馬ではなく、千葉のチバリーヒルズというところにいます。
morich:チバリーヒルズ! 行ってみたいです。ビバリーヒルズ的な言い方ですね。
木田:ぜんぜんかっこよくないです。チバリーヒルズというのはディスられている言い方です。「なぜこのような所に、バブルの時の日本人の勘違いのような町があるのですか?」と揶揄されているような町です。
morich:それでも一帯のみなさまは経営者がけっこう多いですよね。
木田:お医者さんとか経営者とか……。ランボルギーニが止まっていたりします。1番狭い物件でも400坪ぐらいあります。
morich:やはりそのような夢も見せてほしいですね。私は逆に「経営者でがんばればそうなるぜ!」という夢を見せてほしいです。
木田:そうですよね。ぜいたくが美徳というわけでもないのですが、スポーツ選手なども日本はやはり小粒が多いですね。成功する人はどのくらい違うのかといっても、日本人が思う成功は、年収1,000万円超えがエリートですごいというところでしょうか。
おそらく今の平均給与は300万円から400万円台なので、もちろんすごいことですが、年収1,000万円超えの人と年収400万円の人の生活はそんなに変わりません。少しいいマンションやいい車が買えるというレベルだと思います。
ビバリーヒルズのようなお屋敷を手に入れるとか、豪邸だとかプールだとか、ジャグジーが家にいくつもあるというような暮らしというのは、おそらくそのぐらいの違いでは体感できないと思います。
morich:想像を超えますね(笑)。そのチバリーヒルズは、ちなみに何LDKなのですか?
木田:11SLDK。
morich:もう迷子ですね! かくれんぼをします。
天才とは飛び出してしまう勇気がある人
木田:私が子どもの時に憧れたのは本田宗一郎さんです。私の父は本田さんとも友達だったので、家に遊びに来たりもしていました。遊びに勢いがあった時だったのですが、本田さんの邸宅は500坪あって、川があって、そこにニジマスを放流して、ニジマス釣りをするというようなパーティーをしていたのです。
あの当時は本田さんがそのような大きな邸宅を持っていても、松下幸之助さんが何千坪の邸宅を持っていたとしても、それを叩くような文化ではありませんでした。
morich:なかったですよね。
木田:「みんな努力してそこを目指しましょう」だったのが、今の日本はそれを叩いてしまうような文化になってしまっています。
1,000万円か2,000万円ぐらいの給料の人をすごいと言って、しかし本当の意味では尊敬もしていない。本当の大会社の社長までいけばもう少しいけますが、大会社で役員になっても、それでも1億円超えている人ってほとんどいないですよね。
お笑いタレントの年収が億を超えるほうが、みんなの憧れになっています。お笑いタレントに憧れてもいいのですが、やはり選ばれし人で人数的には少ないですよね。芸能人ですから。
morich:確率は非常に低いです。
木田:もう少し普通の生活をしている社会人になると、会社員になるとか、ビジネスマンになるケースが多いと思います。その延長線が、やはり大谷翔平のような位置にいてくれないと、それを叩くというのも違うと思います。
morich:私もめちゃくちゃ、そう思います。やはり憧れて「そこを目指したい」という大きな頂上であってほしいですよね。
木田:「天才を殺す凡人」という、けっこう売れていた本がありましたが、やはり天才的にならないとその位置まではいかないと思います。天才は別に頭がいいというよりは、何か飛び出してしまう勇気がある人なのだと思います。多くの失敗もあるかもしれないのですが、その中の1人が抜け出ることで、大勢の若者に夢を与えると思います。
その本で挙げられている凡人は、秀才のことだと思いますが、秀才たちは天才が追い抜いていくのが不愉快で仕方がないのだと思います。
morich:嫉妬もあるでしょうね。
木田:なぜソビエトがアメリカに勝てなかったかというと、同じように宇宙開発を行い、技術水準は同じだったと思いますが、アメリカは月に行きました。いろいろな疑惑は別として、一応、月に行ったことになっています。でも、月に行く必要はないと思います。
人工衛星ぐらいまではビジネスとして成立すると思いますが、そこから月に行くというのは、ただのロマンであり、かかる費用は異常なことになってしまうので、月に行くということをやり切った強さがアメリカの今の天下だと思います。
「月に行ってみたい」ということが、天才が打ち出す方針なのだと思います。それを理論で「何の採算性も合わない。これは意味がない」ということを証明しようと思うといくらでもできます。そちらのほうが力が強くて潰しにかかるということに、今の日本がなってしまっているのは悲しいことです。月に行くのは中二病だと思いますが、中二病を許すということです(笑)。
morich:いや、しかしそれは立派なロマンだと思いますね。
木田:今の若者もロマンを持てるようになるために、豪邸に住もうということです。
福谷:なるほど。わかりました。
morich:1回見に行きますか?
福谷:もうチケットをいただいたかと思います。ご紹介いただいたので。またご連絡します。
木田:ぜひお越しください。
福谷:ということで、お時間も来てしまいました。1時間びっちりとお話ししましたが、あっという間ですよね。
morich:足りないですよ。
福谷:足りないですよね。個人的に私はイワサキさんにお会いしたいです。一つひとつのお話が本当に濃いなと思いました。
morich:いや、濃いです。しっかりと今につながっていますよね。
福谷:つながっていますし、お話されているシーンが、すごく思い浮かびました。それぐらい本当に真剣に生きてこられたのだと思っています。すごく刺激を受けました。
morich:次は、チバリーヒルズですね。
福谷:もう機材を全部持っていきます。ということで、新morichの部屋の第12回目は木田社長をお迎えしました。本当にありがとうございました。
morich:ありがとうございました。
木田:ありがとうございました。